銅器職講の鳥居

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銅器職講大山山頂の近く、27丁目に鳥居がある。明治34年(1901年)、東京の銅器職講が奉納したと刻まれている。
「東京」の文字が少し誇らしげ

先導師として「津田茂穂」(穂は「一」が入る)と良辯瀧「亀井正縄」の二人が刻まれている。
津田茂穂
亀井正縄

銅を扱う職人が。明治の東京には大勢いた。
世話人

「かねへん」はやっぱり多い。
形、鋳、鍛、鎮、籠

「銅」はもちろん多い。
銅良、銅伊、銅源、銅善

大山講は、江戸時代までの習俗だと思い込んでいた。しかし、明治の終わりにも、大山講の習慣が生きていたことに驚いた。
信仰の対象であった大山寺は廃仏毀釈で壊され、大正までの長い時間をかけて再興されていった。再興されるまでの間に、神社の山の性格が強くなった。大山寺のご本尊は鉄造不動明王二童子像。明治終盤の銅器職講による鳥居の奉納は、銅製の信仰対象を売り込む「営業」でもあったのだろうか。

当時、小田急はまだなかった。東海道本線は開通していたが、二宮から秦野までの湘南軌道は、まだ開業していない。東海道本線二宮駅の開業も明治35年(1902年)である。どのようなルートで銅器の職人がこの地にやって来たのかも、興味深い。

青山通り大山道を東京から歩いてきたのか、あるいは藤沢、平塚あたりまで鉄道でやって来て大山道を歩いたのか、はたまた国府津から羽根尾通り大山道をたどったのであろうか。この当時の東海道本線の駅は、戸塚、大船、藤沢、平塚、大磯、国府津の順で、駅間は今よりもぐっと長かった。